エイズと私

マダム ボンジュール・ジャンジ(female Drag Queen/performer)/荒木順子(community center aktaセンター長/非営利団体akta代表)

 1980年初頭こわい奇病がアメリカで流行っているらしいという噂が、はじまりだった。情報が交錯しており、古着でうつるんじゃない?なんて心配してた。
 ファッション関係にいた事もあり、割と身近で話題になっていた。
 1994年頃、知り合いのアーティスト古橋悌二氏がエイズをカミングアウトする手紙を友人たちみんなに同時に渡した。うけとった人たちが一人で抱える事がないように配慮してのことで、私もその手紙を読んだ。彼が在籍するパフォーマンスグループ「ダムタイプ」の作品「S/N」では、エイズをとりあげカミングアウトした。だが残念ながら古橋氏は1995年10月に亡くなる。
 1994年、横浜で行われたエイズ国際会議に出かけた時には、病や国籍を越えてたくさんの人と触れあえて楽しかった。そして宵闇に野外ステージで上映された「エレクトリック・ブランケット」。ナン・ゴールディン等アーティストが、身近なエイズの人や在り様を撮影したヴィジュアルと言葉で編んだ映像作品が印象的で、心が痛み、今も眼に焼き付いている。

 1996年から京都の「AIDS POSTER PROJECT」や「CLUB LUV+」にパフォーマーとして参加し、1997年セクシャリティMIXの「ジューシィー!」というpartyを新宿2丁目で立ち上げた。キラメくショータイムとダンス、音楽とお酒!楽しい事といっしょに、コンドームを配布したり、ピンクベア氏がHIV/エイズを語るコーナーや張由紀夫氏等とsafer sexのエロビデオをつくって上映したりしてきた。

 2001年、2002年には、東京のパレードにHIV/エイズのフロートを出すことになり、友人たちといっしょにつくったり、partyをコーディネイトした。2003年9月、新宿2丁目に「community center akta」が出来て、「Living Together Lounge」が始まってからは、陰ながら協力したり応援をしてきた。
 その中で「NPO法人 ぷれいす東京」が編集した陽性者の手記集(モノクロのコピー版)をはじめて読んだ時の感覚が鮮烈だ。一気にHIV/エイズと自分の距離が近づいた。この体感が「Living Togetherのど自慢」開催につながっている。  その後、2005年2月に「community center akta」の事務局員となり、MSMの予防啓発を中心とした研究事業や様々なキャンペーン等に関わりながら今に至る。
 心の内を占めたり、俯瞰したり、距離は様々だが、HIV/エイズのことは、私の日常である。

 2012年4月、私たちは「NPO法人 akta」を設立予定だ。
 続けよう、と思う。まずは1年でも、3年でもやってみよう、と思った。続けようと思う仲間がいる。エイズが登場して30年だという。先陣を走って来た凄い先輩たちもそろそろいいお年で、今後の日本のエイズ対策はどうなるのか、と心配にもなる。でも続けるためには、まずやってみるしかない。1人ひとりの点が、やがて線になり、振り返って見たときに、続いてみえるだろう。

 HIV/エイズのことを考えることは、命の尊さ、SEXのこと、自由と責任、また多様性と関係性を見直すことでもある。HIV/エイズは、社会の在り様を そこにあるさまざまな問題をまざまざと映し出す鏡のようだ。
 2009年、東京都写真美術館で「Living Together/STAND ALONE」(客演:長谷川博史氏、藤原りょうじ氏)という作品を上演した。
 私は、「Living Together−共に生きること、生きている」という意識と、「STAND ALONE−自立する、1人立つ」という意識が、同時にとても大切だと考えている。